さまざまな海外のおもしろいゲームをローカライズし、日本のゲーマーに届けてくれるフライハイワークス。その代表取締役の黄政凱さんは、台湾にルーツをもっています。日本のコンシューマゲームに惹きつけられ、自らゲーム会社を設立するに至るまでに何があったのか? そんな黄さんのゲーム人生に迫るコラム連載も第2回目です。
今回の話は、台湾の大学入学から兵役を終えるまで。国を守りながらも、ゲームを手放さなかった黄さん。いったい何を考えながら、どんなゲームをプレイしていたのでしょうか。
コラム第1回目:少年期編はコチラ
■ゲーム三昧で過ごした大学生活
僕が台湾の国立清華大学に入学したのは2000年9月のこと。清華大学は、当時の台湾で2番目に偏差値の高い大学でした。でも、正直なところ僕としては、合格したことにそこまでの喜びはありませんでした。
前回書いたように、僕自身は「高校を卒業したら、ファミ通に毎回広告が載っている代々木アニメーション学院のゲームデザイナー学科(※現在は、アニメ・ゲーム学部)に行く!」と心に決めていましたので、大学に行く気なんてさらさらなかったのです。
しかし、両親や学校の先生に「大学には行っておきなさい」としきりに説得され、しぶしぶ大学に行くことにしました。せめて専攻だけでもゲームに近いところにと考え、コンピュータサイエンス学科に進んだのですが、この選択は結果的にとてもよかったと考えています。ゲームを開発するうえで、実際に役立つ知識や考え方を得ることができましたから。
とはいえ、僕はかなり不真面目な大学生でした。ある授業で2回単位を落としてしまったのですが、その理由は2回ともテストの日を知らなかったから。あまりにもやる気がなさすぎますね(苦笑)。当時は昼夜逆転の生活をしていて、授業の情報を得る機会がほとんどなかったのです。
高校までは「周りに評価されたい」という自己顕示欲や「ゲームばかりで勉学が疎かになっていると思われたくない」というモチベーションで勉強をがんばっていました。でも、大学ではそういう気概はなくなってしまった。学生という意味では、清華大学に入った時点でゴールした気持ちでいたのです。
では、勉強をしないで何をしていたかというと……それはもちろんゲームです。進学を機に親元から離れ、自由の身になったのをいいことに、アルバイトをしてはゲームを買い、ひたすら遊ぶ生活を送っていました。ちなみに、アルバイトは日本語ができたこともあって、日本の漫画の翻訳などをしていました。
当時『Dance Dance Revolution』シリーズにものすごくハマっていて、ネット上のIDを「DDR2」にしていたのはいい思い出です。そのせいか、当時の友だちは僕のことをいまだに「DDR」と呼びます(笑)。家庭用の『DDR』を寮の部屋に常備して、友だちにターンなどの華麗な技を見せつけていたのだから、無理もありません。大学時代はこのように、ちょっとイタい方向に邁進していた時期です(笑)。
僕は大学2年生までは寮に住んでいましたが、3年生になってからは同級生と一緒に部屋を借りてルームシェアを始めました。『スーパーモンキーボール』のミニゲームの勝敗で誰が夜食を買いに行くか決めたりする、とても楽しい生活。僕が突出してうまいゲームで勝負するときは、適度にハンデを負ってバランスを調整する……そんな日々でした。
当時、指が痛くなるまでプレイしていたのはドリームキャストのドライビングゲーム『クレイジータクシー』。急発進を繰り返すゲーム性のため、L・Rボタンの操作がキモになるのですが、ずっとプレイしまくっていたのでL・Rボタンが戻ってこなくなってしまい、結局コントローラを3つほどダメにしたことを覚えています。
PlayStationのパズルゲーム『XI[sai]』にもハマっていました。大学3年のときにPS2で発売されたシリーズ最終作『XIゴ』は、朝起きてから寝るまで、ご飯を食べるのも忘れてプレイしていました。アジアランキングの上位を狙っていたからです。この『XI』と『DDR』はやり込みすぎて、当時台湾で出版されていたゲーム雑誌に攻略記事を書いていたほどでした。
同室の友だちは一緒にコンシューマゲームを遊んでくれていましたが、当時の仲間たちの間で主流だったのはパソコンのゲームでした。コンピュータサイエンス学科の同級生はみんなパソコンを持っていましたし、とっつきやすかったことが大きいと思います。
人気があったのは『スタークラフト』というストラテジーゲームと、『QUAKE(クエイク)』というファースト・パーソン・シューティング(FPS)。僕からすれば、みんなは仲間と交流して仲よくなるためのツールとして、ゲームを遊んでいるように見えました。
これはゲームが持つ素晴らしい部分のひとつですよね。でも、僕はそういうことはお構いなしに、ゲームそのものを楽しみたかった。だから遊んでいるのがたとえ僕一人でも、PS2やドリキャスのゲームをプレイしていました。
■兵役時代もゲームを手放すことはなかった
成績は散々だった大学時代、僕にとって将来につながる大きな転機が訪れます。それは、日本のゲーム業界の人との出会い。
当時の僕は、パソコンで夜な夜なチャットをしていました。日本の文化に触れたいという気持ちが根強くあったので、日本のみなさんが集まるチャットルームにもよく顔を出していました。そうしたら、そこで日本のゲーム業界に詳しい人と出会うことができたのです。
さらにその人が、ゲーム音楽の制作などを手がける堀口比呂志さんという方を紹介してくれました。この出会いは、僕にとって大きな意味を持つことになります。
堀口さんは僕に日本のゲーム業界のいろいろなことを教えてくれた恩人で、今でも一緒に飲みに行くなど、仲よくさせてもらっています。のちに僕は、この堀口さんの紹介により、フライハイワークスとして初のゲームをパブリッシングすることになるのですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。
さて、そんな僕が大学2年のときに、ゲームボーイアドバンスで『逆転裁判』が発売されました。それまで、テキストを主軸にしたアドベンチャーゲームを楽しいと思ったことはほとんどなかった僕に、このゲームは大きな衝撃を与えてくれました。物語やゲーム性が素晴らしく、やり始めたら眠れないくらいおもしろかった。
ただ、『逆転裁判』はテキストベースのゲームだからこそ、台湾の友だちには日本語のままではプレイしてもらえませんでした。こんなにおもしろいのに、言葉の問題でそれを誰にもわかってもらえない。これはとても悔しくて悲しいことでした。
そこで考えたのが「だったら自分で翻訳して台湾版を作ればいい」ということ。「ゲームが大好きで日本語ができる自分なら、日本語のゲームを中国語化するローカライザーになれるはず。自分の特性を活かせる仕事はこれだ」と思いつきました。
「自分がおもしろいと思ったゲームをローカライズして多くの人に知ってもらう」という、今の仕事につながる発想に至った瞬間だといえますね。
そして、先ほどの話に出てきました「堀口さん」が、『逆転裁判』のサウンドを担当していたのです。当時は「これはもう運命の出会いだろ」と思ってました。堀口さんには『逆転裁判』を作った人とつないでもらえるようお願いしていたのですが、結局このお話しは僕が大学卒業後に兵役に就かなければいけなかった都合上、タイミングが合わずに実現しませんでした。
ちなみに『逆転裁判』は、今でも正式な中国語版はリリースされておらず、したがって僕は今なお自分の手でこの名作をローカライズすることを諦めていません。フライハイワークスがもっと力をつけ、有名になることで、いつか『逆転裁判』の中国語版を手がけるチャンスがやってくる……僕はそう信じているのです。
先ほど、さらっと兵役の話が出ました。そう、台湾には徴兵制度があるのです。韓国ほど厳しくはありませんが、それでも一応、19歳以上の男子には兵役の義務が課されます。僕の父親世代などは、期間も長く内容も過酷だったため、指を切ったり醤油を飲んだりして、わざと医師に不合格と診断されるよう細工をする人もいたとかいないとか……。ただ、僕が兵役に就いたときは1年7カ月ですみました(※現在は4カ月の軍事訓練でよいそうです)。
最初の1~2カ月は、銃を抱えて坂道をゴロゴロ転げ落ちたり、腹ばいになって実弾を撃ったりと、けっこう本格的な訓練がおこなわれました。手榴弾の投げ方などは、今でも覚えています。そうして2カ月を過ぎると、それぞれの適正に応じたところに配属されます。僕はコンピュータサイエンス学科卒業だったこともあり、システム関係の隊に配属になりました。
そこで僕が何をしていたか……やっぱりゲームです(笑)。トラブルがなければわりとヒマな業務が割り当てられていたので、ゲームボーイアドバンスSPを持ち込んで『ことばのパズル もじぴったん アドバンス』を遊んでいました。
「軍隊に所属しながら『もじぴったん』を遊ぶ男」
言葉にするとシュールですね。でも、当時はこの非生産的な時間をなんとか有効に使いたいと考えていました。本来なら、大学を卒業してすぐ日本に渡り、ゲームの会社に就職したかった。はやる気持ちを抑えて兵役に就いているわけだから、せめてこれくらいはいいだろうと思っていたのです(もちろん本当はいけません)。
熱心に英語の勉強をしていたのも、ちょうどこの時期。兵役には休みの日もありますので、そのときは日本のドラマを翻訳するバイトを受けていました。軍隊で支給される賃金というのは、本当に雀の涙ほどしかありません。それだけでは到底お金が足りないのです。そこで、短期でできるバイトを探したらドラマの翻訳に行き当たりました。
たしか市原隼人や石原さとみが出演していた「WATER BOYS2」や、織田裕二や矢田亜希子が出演していた「ラストクリスマス」などの翻訳をした記憶があります。
「軍隊に所属しながらトレンディドラマを翻訳する男」
これまたシュールですが、なかなかおもしろいバイトでした。そうして「早く終わらないかな」と思い続けた19カ月が過ぎ、ようやく兵役を終えた僕は、翌日すぐに日本へ向けて旅立つことになるのです。
(第3回へつづく)