濱田誠一氏(写真左)
データイースト、セガを経て現在はフリーランスで活動するゲーム音楽作曲家兼ベーシスト。データイーストのゲームミュージックバンド、ゲーマデリックではベースを担当。代表作は『フライングパワーディスク』、『ヘラクレスの栄光』シリーズなど。特に『探偵 神宮寺三郎』シリーズはファミコン版4作目の『時の過ぎゆくままに』以降、『灯火が消えぬ間に』を除く全タイトルのサウンド制作に携わっている。
前編はコチラ→音楽とプログラム、2つのスキルを生かすために選んだゲーム業界の道
■「ゲーマデリック」が生まれるまで
安藤武博(以下、安藤):今回はゲーマデリックの誕生秘話からお聞きしたいんですけど、一時期、ゲームメーカー公式でゲームミュージックバンドを立ち上げるっていう流行がありましたよね。
濱田誠一さん(以下、濱田):そうですね。セガから「S.S.T.BAND」が出てきたりして。それは、社内でも「セガさんがカッコいいことやってるじゃないすか!」ってなりますよね(笑)。当時、MZA有明でのデビューライブもみんなで観に行って「カッコいいね」と。1990年には日本青年館で“ゲームミュージック フェスティバル'90”が開催されて、そこにTAITOのZUNTATAとS.S.T.BANDが出たんです。
そして翌年1991年にサイトロンさんから「データイーストさんも出ませんか」っていう話をいただきまして。社内で俄然「やるやる!」と盛り上がりました。ラッキーだったのは、たまたまサウンドにギターやドラム、ベースなど全パートの奏者がいたってことです(笑)。
安藤:全パートがそろい踏みだったんですね。当時、サウンドチームは何人ぐらいいたんですか?
濱田:アーケードとコンシューマ、合わせて12~13名はいましたね。常に新作の開発が走っていましたし、アーケードは毎月何かをリリースしてるような状況で、この人数でもてんてこまいでした。で、ゲーマデリックの話なんですけど。せっかく全パートのメンバーがいるので「じゃあやるか!」ってなって初出演したのが1991年に中野サンプラザで開催された“ゲームミュージック フェスティバル'91”ですね。
安藤:社内サウンドチームにプレイヤーが多いのも、当時は当たり前だったんですか? DTM全盛以降の今、プレイヤーじゃなくてもコンポーザーをやっている方も多いと思うんですけど。
濱田:鍵盤が弾ける人は多かったですね。その次に多いのがギター。結局、制作ツールが非常にチープだから、まず最初に曲をアナログの状態で作って、それをツールに落とし込む作業になるんですよ。なので、自分で曲を表現できないとどうしようもなかった。当時はDTMのような便利ツールはほとんどないので、曲を表現して人に聴かせるためにどうするかっていったら、自分で楽器を弾くしかないんですよ。あとは譜面を理解できるかどうか、そのどっちかですよね。
安藤:濱田さんはどちらだったんですか?
濱田:僕はどっちもやりましたね。
安藤:バンドのみなさんも譜面を書けるのが当たり前の人たちということですよね。
濱田:そうですね。自分は出身が箱バンだから、譜面がないと話にならなかったので。とは言っても、そんなにバリバリ読み書きできる程でもなかったけど(苦笑)。一応、ひととおりの読み書きはできますし、ゲーマデリックでは基本的に全部書き譜でやっていました。理由はリハの時間がそんなに取れないので、まずアレンジャーが欲しいものを全部譜面に書くっていう。
安藤:譜面は五線譜ですか、TAB譜ですか?
濱田:五線譜ですね。16段譜(※1)の形式で書いてました。だから4リズムを一覧で書いてくる感じ。コードも必要だったらトップの音は書くっていう。ベースラインもリフはこう、みたいに伝えて。
(※1)16段譜……一枚の譜面に五線譜が16段ある形式の楽譜。
安藤:ミュージシャンですね。完全に。
濱田:そうですね。ギターのMAROはハードロックギタリストなんですけど、彼は大学のジャズ研出身なんですよ。だから、譜面を書くのは彼が一番早かったな。