さまざまな海外のおもしろいゲームをローカライズし、日本のゲーマーに届けてくれるフライハイワークス。その代表取締役である黄政凱さんの、現在に至るまでの軌跡を追う連載、第3回です。
台湾で課せられる兵役義務を無事に終え、念願の日本移住にこぎつけた黄さん。ゲームクリエイターとしては戦闘力ゼロの状態で、果たして仕事は見つかるのでしょうか。日本での就職、そしてそこで出会った会社経営の師とは?
コラム第1回目:少年期編はコチラ
コラム第2回目:大学~兵役編はコチラ
■ゲームの世界において、日本のゲーム業界は「メジャーリーグ」
僕は台湾で義務となっている兵役を終えると、その翌日、日本に向かって飛び立ちました。兵役が終わる日というのは厳密に決められているので、事前にその翌日のフライトを予約しておいたのです。
本当は大学が終わった時点、なんなら高校を卒業した時点で日本に行きたかった。それほどまでに、日本への想いを溜め込んできていました。なので、出発の日は「僕を縛り付けるものはもう何もない!」という清々しい気持ちでした。
両親は、快く僕を送り出してくれました。日本はもともと家族で一緒に住んでいた土地ですし、親としては「政凱が台湾以外で活躍できるのならば、そのほうがいい」と考えているように見えました。
とくに、僕が目指していたのはゲーム関係の仕事だったので、「それならば本場の日本に行くべきだ」という気持ちもあったのだと思います。野球をやっている人がアメリカのメジャーリーグに行けることになったら、反対する人はまずいないでしょう。ゲーム業界を目指す台湾人にとって、日本はまさにメジャーリーグだったのです。
さて、喜び勇んで日本にやってきたはいいものの、住む場所も、仕事も、コネも、僕には何もありませんでした。装備もレベルもゼロの状態です。とりあえず野宿をするわけにはいかないので、蔵前にある民宿に1カ月単位で泊まることにしました。外国人である僕は家を借りるハードルが高い。その民宿は中国系の方が運営していて、外国人の滞在に寛容だったのです。建物は木造のオンボロで、4畳くらいの小さな部屋。それでも、日本に来られたことがすごくうれしかった。
外国に滞在するということは、ビザの問題もあります。観光ビザでの渡航なので、90日以上は滞在できません。滞在期限に近づくと一度台湾に戻って、またすぐ日本に行く。日本にいる間は、台湾の出版社から翻訳のアルバイトを受けて生計を立てていました。
しかし、台湾と日本の往復を短期間に何度も繰り返すと、さすがに空港の入国審査の職員から不審に思われてしまいます。4回目で別室に連れて行かれた時、「もう次は日本に入れてもらえないかもしれない」と焦ったことを覚えています。
そこで、本腰を入れて就職活動をすることに。そのとき募集をしていたのが、『ギルティギア』シリーズをリリースしていた「アークシステムワークス」でした。他の会社は書類で落とされてしまうことが多々ありました。でも、アークシステムワークスでは社長が自ら直接面接をしてくださり、「じゃあ、一緒にやってみようか」と採用してもらえたんです。これは本当に幸運なことだったと思います。2006年のことでした。
■電話応対からディレクターまで、なんでもやったアークシステムワークス時代
僕は大学でコンピュータサイエンス学科を卒業していたとは言え、プログラマーとしてはまったくのド素人でした。こんな僕でも採用してもらったんだから、どんな仕事も全力でやろう。そう決めて、入社後は電話応対でもなんでも率先してやりました。
貪欲に、がむしゃらに、なんでも触りたいし、なんでも見たいし、なんでもやりたいという姿勢で仕事に向かっていました。「わざわざ台湾から来たのだから、なんとしてでもチャンスをつかまなければ」というプレッシャーがあったかもしれません。ここでダメなら、何もかも終わりだという切迫感が常にありました 。
アークシステムワークスに入社して2年ほどは、プログラマーの仕事を任されていたのですが、自分はあまりプログラマーには向いていないということを実感する日々でした。プログラムやアルゴリズムを書くこと自体はパズルゲームのようで楽しいのですが、1つでも間違えたら深刻な不具合につながるシビアさ、そして日進月歩で変わる最新技術のトレンドについてくのがすごくたいへんだったのです。
一方で、わりと人に合わせて話をするのが得意だったので、営業チームの接待飲み会などによく呼ばれていた気がします。「もしかしたら自分は、ディレクター的な仕事のほうが向いているのかもしれない」と思い始めたのは、このあたりでのことでした。
そのくらいのタイミングで、プログラマー的な仕事ではなく、ディレクター的な仕事を割り振ってもらえるようになりました。当時のアークシステムワークスは「やりたい」と言った人に高い確率でその仕事を任せてくれる風土があったので、未具体的な経験はまだ少なかったかもしれませんが、いろいろ任せてもらうことができたのです。
そこからは、Wiiウェアの『おきらく』シリーズや『神宮寺三郎』シリーズ、『くにおくん』シリーズなどのディレクターを担当することになりました。短いスパンでリリースするタイトルをたくさん担当できたことは、間違いなく、今の仕事にもつながっています。
アークシステムワークスに勤めていたとき、ゲームに対する見方が変わったできごとが一つあります。社内で「なぜ『スーパーマリオブラザーズ』はおもしろいのか?」を研究するため、みんなで『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたのです。そうすると、あの、僕がダントツでうまかった(笑)。ほかの人があまりクリアできないような局面でも、効率よくアイテムをとりながらぴょんぴょんと進めるので、周りの人たちが「黄さんキモい…」って言って、さーっと引いていくのがわかりました。
一方、僕は僕で「えっ、日本のゲーム会社で働く人は、『スーパーマリオ』くらい一発クリアできるものじゃないのか!」と衝撃を受けていました。『バーチャファイター』にハマっていたころ、世界トップクラスの日本のゲームオタクの人と対戦し過ぎたから、過剰な期待感を持っていたのかもしれません。
よくよく考えてみると、ゲーム会社で働く人が、全員ゲーム上手なわけではないのです。ゲームが好きだからといって、必ずしも上手であるわけではないのですから。このときの経験から、僕はゲームの難易度について注意深く考えるようになりました。どれくらいの難易度なら、このゲームを遊んでくれるユーザーさんが気持ちよくクリアできるのか。製作の打ち合わせなどでも、「これだとクリアできない人もいますよね」といった意見が言えるようになったのです。
■目指すべき社長像を学んだ6年間
ずっとゲーム三昧の人生を送ってきた僕ですが、アークシステムワークスに勤めていた6年間が、人生で最も「ゲームを遊んでいなかった時期」かもしれません。朝早くから夜遅くまでずっと働いていたので、単純に時間があまりなかったのです。
ただ、入社1年目にWiiが発売された時は、深夜から上野のヨドバシカメラに並んで買いました。同時発売の『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』も一緒に購入し、上で話に出た4畳の部屋で遊んだ記憶があります。あれは楽しかったなあ。
ほかには、スマホのインディーゲームが流行っていた時期だったので、『アングリーバード』やポノスさんが出していた棒人間のゲームなどを、通勤時間を利用して遊んでいました。当時のスマホゲームはまだコンプリートガチャが中心の、いわゆる「ガチャゲー」は主流ではなく、個性的な買い切りゲームがいろいろあったのです。
ちなみに補足をすると、僕は今もってガチャゲーをちゃんと遊んだことがありません。どうにも興味が持てないんです。離脱率やコンバージョン率を見ながら、課金を目的に調整されたゲームはちょっと苦手……いや、あんまり言い過ぎると業界から抹殺されそうなのでこれ以上は辞めておきますが(笑)。
あくまで「僕にとって」ではありますが、ゲームは方向ボタンやA、Bボタンで操作したいし、追いかけるべきストーリーがあってほしい。すべてクリアしたらスタッフロールが流れるようなものであってほしいという気持ちです。
もちろん、これが古い考えだというのはわかっています。事実として、ガチャゲーで遊んでいる人がものすごい数いるわけですから。これはきっと、僕がファミコンで遊んでいるのを見て、両親が「それの何がおもしろいの?」と理解できなかったことと、オーバーラップしているのだと思います。この当時30代の両親が、今の僕です。なので、僕がガチャゲーという新しいゲームのおもしろさについていけていないということなのでしょう。
そしてアークシステムワークスでは、自分が唯一師匠だと思っている方に出会えました。それが代表取締役社長である木戸岡稔さんです。
木戸岡さんはとても頭のいい方で、なおかつ昔は凄腕のプログラマーだったと聞いています。会社のみんなでああでもない、こうでもないと議論して行き詰まっていると、木戸岡さんが別の視点から「こうじゃないの?」と意見を投げる。それがきっかけとなって、あっという間に議論が収束するということがよくありました。
これは「社長の意見」だから通るのではなく、木戸岡さんの意見が圧倒的に本質を突いているからこそでした。課題を解決するために物事の本質を見極め、遠慮せずに発言するという木戸岡さんのやり方は、僕が社長になってからも参考にさせていただいています。
木戸岡さんにはプログラムの指導をしていただいたこともあります。当時の僕の「どう説明したらいいかもわからない」ような話を聞いて、それでも「僕が悩んでいるポイントに的確な答えを用意できる」。本当に頭が相当キレる方なんだと思いました。
また、僕はよく木戸岡さんに「ナゼこうなのでしょう」とか「こういうアイデアどうですかね」と話しかけに行っていたのですが、今考えてみると、よく僕みたいな若造の話をちゃんと聞いてくださったものだと思います。
社長になってみると、なかなかすべてに全力をかけたり、すべての話に時間をかけるのが難しいことが分かってきました。だからこそ、「僕のような若造の話に時間を割いてくれる」ことがどれだけありがたいことであったかを、今になって痛感しているのです。
木戸岡さんは「社長という立場だからスゴイor偉い」という感じの方ではなく、「実力がすごいから社長をやっているんだろうな」と僕には思えました。もちろん、先ほどの議論の強さに関してもそうですが、社員との関係性も大切にしておられ、社員に「こうする」と言ったことについては、必ず約束を守られていました。
当たり前のことだと思われるかもしれませんが、アークシステムワークス時代に、給料が遅配されたことはありません(本当に当たり前のことと思われるかもしれませんが、手作業でやっている以上、僕は必ずしも当たり前のことではないと思っています)。また、特別報酬が近いのに、まだその手配が終わってないことを聞いて、幹部の方をすごく厳しく叱っておられる姿を目の当たりにしたこともあります。
手作業でやっている以上、たとえば何かの手違いで遅れたりするようなことって、いつかはありそうなものだと思うのですが、僕が推測するに、そのようなことがあるとどんな不可抗力的な理由であったとしても、社員に疑念を持たれたり、心配に思われたりしてしまう。だからそのようなことがないように、「社長がやるべきことをちゃんとやる」ことを重視されているような気がします。
「仕事は教えるものではなく、見て盗め」という言い方があると思いますが、僕は幸運にも、入社してからずっと社長に近い席に居ましたので、社長のあるべき姿を「見て盗む」ことができたような気がします。これは本当にありがたいことです。
木戸岡さんには個人的にも、本当によくしていただきました。就労ビザも木戸岡さんがいなかったら、どうなっていたことか。2年ごとの更新で、ある時、期限ギリギリに手続きをしようとしたら、僕のミスで書類が足りなかったことがあったのです。明日の提出では間に合わない。このままだとビザが切れて、台湾に帰らなければいけなくなってしまうかもしれない。どうしよう。
混乱しながら木戸岡さんに電話をしたら、「わかった」とひとこと口にして、会社がある新横浜からタクシーを飛ばして品川の入国管理局まで書類を届けに来てくださいました。これは一例でしかありませんが、そのほかのものも含め、受けた恩義があまりに大きすぎて、そのすべてを返しきれていない状況です。
そうしたこともあり、僕は自分の会社を立ち上げるときに社名の一部を「〇〇〇〇ワークス」にしたいと思っていました。そう、今だからこそいえることなのですが、「フライハイワークス」の「ワークス」の文字は、「アークシステムワークス」からきているのです。
独立しようと決めた時、木戸岡さんを食事にお誘いして「自分が立ち上げる会社の名前に、“ワークス”というワードを使ってもいいですか?」と聞きました。この社名にするなら、ここはちゃんとしておかなければと思ったのです。木戸岡さんはためらう様子もなく「いいよ」と快諾してくれました。
ただ、いつか「ゲーム会社の社長になりたい!」と思っていて、それを実現しただけとはいえども、結果的にアークシステムワークスと同じ業種の会社を立ち上げたことを、僕は少し後ろめたく思っている部分があります。
やっている仕事はアークシステムワークス時代とは全然違うことですし、リリースしているゲームの系統も違います。でも、大きな意味では「商売敵」です。「技術を学ぶだけ学んで独立した恩知らず」と思われても、しょうがないと思っています。
今、木戸岡さんはフライハイワークスのことを、そして僕のことをどう思っているのだろう。聞きたくても聞けないまま、もう7年という月日が経ってしまいました。そろそろ覚悟を決めて木戸岡さんに会いにいかなければ……。そんなことを、最近考えています。