フライハイワークス・黄 政凱の「台湾人だったけど、日本のゲーム会社社長になってみた!」 【連載第4回:起業編】
さまざまな海外のおもしろいゲームをローカライズし、日本のゲーマーに届けてくれるフライハイワークス。その代表取締役である黄政凱さんの、現在に至るまでの軌跡を追う連載、第4回です。
日本のゲーム会社で経験を積み、日本に帰化する条件もそろった黄さん。いよいよ日本で会社を立ち上げます。しかし、設立直前に起こったのは東日本大震災。そして、思ったように仕事が取れない。ゲームの仕事がしたい一心で突き進んできた黄さんは、ここで大きな壁にぶつかります。

コラム第1回目:少年期編
コラム第2回目:大学~兵役編
コラム第3回目:就職編
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■「日本人になりなさい。あなたはもっと高く飛べる」

アークシステムワークスに勤めて5年。このあたりで僕は日本人になる、つまり帰化の手続きのために動き始めました。「5年以上日本に住んでいること」が帰化の条件なのです。しかもただ住んでいるだけではダメで、365日のうち80%以上日本に滞在し、さらに3年以上就労ビザで働くことが必要とされていました。それがクリアされたので、帰化の手続きを始めたのです。

日本に帰化するためには、台湾の国籍を離脱しなければいけません。つまり台湾の国籍を喪失するのです。それでも、僕は迷わず日本に帰化することを選びました。日本で会社をつくり、自由に仕事をしていくためには、日本の国籍が必要だからです。台湾の国籍は、これからの僕に必須ではなかった。台湾には親族も友だちもいて、僕がそこに戻ればあたたかく迎えてくれる。この関係に国籍のあるなしは影響しない。僕はそう考えていました。

でも、両親はどう思うだろう。戸籍謄本から、息子の名前が消えるわけです。家族にとって、それは大ごとです。幸いなことに、両親は僕の人生を尊重し、「やりたいようにやりなさい」と言ってくれました。親族も、僕が日本で生まれて日本で働きたいとずっと願っていたことを知っていたので、「できることなら日本人になりなさい。あなたはもっと高く飛べるはず」と背中を押してくれました。

僕は今、日本人であること、台湾人であったこと、両方にアイデンティティを持っています。日本と台湾、どちらにもいいところがあり、どちらも好きな国です。

国籍を変えるタイミングで、じつは名前も変えることができます。より日本人になりたい人は「日本っぽい名前」をつけられるわけです。でも僕は、名前を「黄政凱(こう・せいがい)」のままにしました。せっかく親がつけてくれた名前ですし、台湾人だったことがバレたくないなんて後ろめたい気持ちはまったくないからです。

むしろ、この名前で日本語がバリバリだったら、ちょっとおもしろくないですか? 自分のキャラクターとしても、黄政凱のままでいるほうがいいと思いました。
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■ゲーム部を作った時の気持ちを忘れず、フライハイ

帰化の手続きには膨大な書類を準備しなければいけないため、けっきょく申請が通ったのは1年後でした。国籍が日本になったということで、自分の中での必須条件はそろったため、アークシステムワークスを退職して念願の自分の会社を立ち上げることにしました。

社名の「フライハイワークス」は、1998年にリリースされたセガの『バーニングレンジャー』というゲームのオープニングテーマ「Burning Hearts ~炎のANGEL~」の一節からのインスパイアです。サビのあたりで「FLY HIGH 飛び立て」という歌詞が出てきます。リリースされた当時、僕は高校2年。このゲームが大好きで、オープニングテーマもすごくかっこいいと思っていました。

そこで、当時HTMLを覚えて友だち数人でウェブサイトを作ろうとしたときに、制作チームの名前を「フライハイスタジオ」にしたのです。それから13年の月日が経ち、会社設立の準備をしていた僕の頭に「フライハイ」という単語が浮かんできました。

ゲームが大好きで、ゲーム部を作ったあのころのように。僕はいま、ゲームの楽しさをもっと多くの人に伝えるため、会社を設立しようとしている。社名に「フライハイ」をつけようと決めたのはそれからすぐでした。

それにあたり、当時一緒のチームだった友だちに「こういう会社名にしようと思うんだ」と連絡しました。「フライハイスタジオ」も、もともと僕が考えた名前だったので、著作権みたいなものを彼が持っていたわけではないのですが(笑)、一応許可をとっておこうと思ったのです。彼はすぐに頷いてくれました。

そうして、「フライハイ」という単語にアークシステムワークスの「ワークス」を合体させて、社名は「フライハイワークス」に決定しました。
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着々と会社設立の準備を進めるなか、2011年3月11日がやってきました。ものすごい揺れと、その後の原子力発電所の事故。日本に住む台湾人、そして台湾以外の国から来た人たちも、その多くが日本を脱出していきました。日本を出る飛行機は、連日チケットが取れない状況だったそうです。本人がそこまで危険を感じていなくても、祖国に住む家族が心配して「戻ってきなさい」と言うのです。

でも、僕は台湾に行くつもりは毛頭ありませんでした。もう僕は日本人なんだから、台湾に帰るなんてありえない。毎日ニュースを見ては不安になりつつ、自分にできることをするしかないと考えていました。

テレビはしばらくニュースばかりで、CMもAC以外は流れないという異常な状態でしたが、ある日「欽ちゃんの仮装大賞」が放送されたのです。これを目にして僕は日常が戻ってきたことを感じ、とても感動しました。バラエティ番組……人を楽しませるコンテンツには、そういう力がある。だからこそ、僕は多くの人に楽しいゲームを届ける仕事をがんばらなければと思いました。

■「こんなはずじゃなかった」と途方に暮れたコンビニの帰り道

東日本大震災から約1ヶ月後の4月12日が、フライハイワークスの設立記念日です。資本金は1万円。社員は自分ひとり。とくにゲーム制作のあてがあったわけでもありません。ただ、中国語ができるのでとりあえずは翻訳の仕事をすればいい、くらいに思っていました。

……と、楽観的に始めた会社経営ですが、思ったよりもどうにもなりませんでした。翻訳の仕事はあるのですが、なんとか生計を立てられるくらい。文字どおり「食いつないでいる」状態でした。ゲームの制作費なんて、とてもじゃないけど稼げません。

翻訳の仕事があればまだいいのですが、仕事がないときはさらにつらい。朝起きて、何もすることがないというのは精神的にこたえるものがありました。何もしないまま20時くらいになり、「ああ、今日も1日無駄に終わってしまう……」と焦燥感にかられます。そして次の日もやることがない。それが続くのです。
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当時は、10時ごろに起きて4時に寝るような夜型の生活をしていました。そのため、よく夜中にコンビニにちょっとした買い物をしに出かけていました。深夜の道には誰もいません。とぼとぼ歩いていると、ふとした瞬間に「僕はこのままで大丈夫なんだろうか」という気持ちがわいてきます。

台湾にいる同級生は、Facebookなどで見る限り、IT企業に勤めたり、医者になったりと、忙しく働いているようでした。半数くらいは結婚して、すでに子どもも授かっている。

彼らが「まっとうな人生」を送っているのに対し、僕ときたらこの有様。これといった仕事もなく、ふらふらと深夜にコンビニまでお菓子を買いに行くなんて、大学生みたいだ。正直「こんなはずじゃなかった」と思うこともありました。

先が見えないということが一番つらかったのかもしれません。あと何メートルで開通するのかわからないトンネルを掘り続けているような気持ち。もしかしたら、あと1メートルでボコッと抜けるのかもしれないし、もっと途方もなく出口は遠いのかもしれない。そもそも、開通なんかしなかったりして……。

自分で決めて進んだ「好きなこと」を貫く道とはいえ、将来に対する心細さは強烈にありました。この時が、人生のどん底だったと言っても過言ではありません。
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■人に助けられて、徐々に実績ができてきた

そんななか、フライハイワークスに大きなチャンスが舞い込んできました。それは、大ヒットゲーム『STEINS;GATE(シュタインズ・ゲート)』の中国版のローカライズです。このお仕事がご縁で、『シュタインズ・ゲート』の発売元であるMAGES.さんにとてもお世話になりました。このローカライズを実績にして、その後の仕事も広がっていくことになるのです。

また、同時期にゲームのデベロッパー(開発元)としての仕事も始めました。これは、任天堂さんに「ニンテンドー3DS向けに、ダウンロードゲームをパブリッシングさせてほしい」と提案にいったところ、簡単には同意を得ることができなかったことがきっかけでした。当時、ゲーム市場で「ダウンロードゲーム」というものはまだまだマイナーなものでしたし、フライハイワークスには実績がなさすぎたことが理由だったんだと思います。

でも、ただでは引き下がれません。「では、パブリッシャーではなく、デベロッパーとしてならどうか」という提案をして、それならOKということになったのです。

こうなると、その作ったゲームを発売してくれるパブリッシャーを探す必要がある。そこで登場するのが、この連載の第2回目に登場した堀口比呂志さんです。大学時代のチャットルームでできた人脈から知り合った堀口さんとは、その後も交流を続けていました。朝まで一緒に飲んで、そのまま堀口さんの家に泊まるなど、本当によくしてもらっていました。

この堀口さんに「どこかゲームを出してくれるところはないでしょうか」と聞いたところ、株式会社トムクリエイトさんを紹介してくださいました。そして、個人のゲームクリエイターが作っていたブラック・ジャック(カードゲーム)のスマホゲームを、ニンテンドー3DSに移植したのです。堀口さんと一緒に、トムクリエイトの武藤社長に「こういうゲームを御社から出させてもらえませんか」とプレゼンテーションしに行ったことをよく覚えています。
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そうしてリリースしたのが、『「いつでも一緒に。」BLACK JACK』というゲームです。実はこれが、初めてフライハイワークスのロゴがコンシューマ機に表示された作品なんです。このゲームはかわいい女の子とブラック・ジャックをプレイするという萌えゲーで、当時のトムクリエイトさんのラインアップとしてはかなり異色でした。堀口さんが一緒にお願いしてくれたからこそ出させてもらえた作品であると思っています。また、チャレンジさせていただいたトムクリエイトの武藤社長には、感謝してもしきれません。

いずれにしても、ゲームを1本作ってリリースまでもっていったということは、フライハイワークスの大きな実績になりました。これが、のちにパブリッシャーとしての第1作にして、大きなヒットとなった『魔女と勇者』につながっていきます。

(つづく)